院長日記

- 鶏頭となるも牛尾となるなかれ - 2008.4.13 新井英和

 

    私は、79年に大学を卒業し、80年に初めての心臓カテーテル検査を行いました。ですから今年で28年間も心臓カテーテル検査に携わっていることになります。冠動脈のカテーテル治療は、83年、関西労災病院に転勤して後、カテーテル治療を始めたばかりの齋藤滋先生とともに働き始めてからの関わりです。循環器診療には血管造影装置をはじめ高額な医療機器を多く必要とするために、当時の感覚では個人で始められるとは夢にも考えていませんでした。ですから、心臓のカテーテル治療に関わり続けるためには資金力のある大きな施設で雇用してもらうしかないと思っていました。こうした中で徳洲会からお誘いを受け、齋藤滋先生とともに湘南鎌倉病院で働くことになった訳ですが、私たちに投資をしてくれるグループの存在をありがたく思ったものでした。また、94年に湘南鎌倉病院から福岡徳洲会病院に部長として転勤する際にも、私のような人間を信じてくれてグループ内最大の病院の循環器部門を任せてくれた恩に報いなければならないと思っていました。

 被雇用者として、チャンスを与えてくれた病院に対して精一杯、お返しをしなければならないと思っていましたから、勤務医時代には本当によく働いたと思っています。湘南鎌倉病院は関東を代表するカテーテル治療の施設になりましたし、福岡徳洲会病院も九州を代表するカテーテル治療の施設の一つになりました。こうした大規模病院だけではなく離島や僻地でも安心できる医療体制を作るのだというグループの方針に応えるべく、それまでカテーテル治療ができなかった奄美大島や鹿屋市でもカテーテル治療ができる施設を作り上げるのだと頑張ってきたつもりです。こうした努力が評価されたのでしょう。福岡徳洲会病院では副院長にしていただき、大隅鹿屋病院では院長に、ついには徳洲会グループの専務理事に任命されるまでに至りました。徳洲会は、日本で最大の病院グループで1万数千床を有する大組織です。その中の10人もいない専務理事の一人ですから、世間の評価は決して低いものではありませんでした。

 そして今、故あってグループを離れ、19床の有床診療所のオーナーとして、また、現場で働く医師としての生活に変わりました。良いポジションを捨てて、リスクの高い仕事に踏み出さなくても良いのになどとよく言われましたが、今の私は、社会人になって以来最大の充実感の中で仕事ができています。徳洲会病院の年間の売り上げは2000億円をはるかに超えます。それに対して鹿屋ハートセンターのそれは数億円でしかありません。組織の一員であった頃の私であれば、このような小さな有床診療所の存在など気にもかけなかったでしょうし、数億円の変化は全体の1%にも満たないわけですから、その位の上下があってもさして重要だとは思わなかったように思います。

 しかし、この数億円の小さな有床診療所であっても、そこで働き、生活の糧を得ている多くの職員が存在し、また、施設を頼りに来て頂く多くの患者様がいらっしゃるのです。こうした感覚を見失って大組織で大きな数字を見て、十億単位の変化でも気に留めなかった私は、果たして被雇用者として、あるいは大組織の幹部として責任を果たせていただろうかと恥ずかしく思います。鹿屋ハートセンターの建築に際して、床材1枚、窓ガラス1枚に至るまでこだわりましたし、コンセントの高さにも、手洗いの配置にも神経を使いました。これは決してホテルのような空間を作るためではなく、医療機関の機能性を高めるためにです。徳洲会の専務理事時代、徳田虎雄さんが時々、新設病院の設計図を見せてくれてチェックしてみてくれと言われました。しかし、当時の私は鹿屋ハートセンターの建築のようには真剣に設計図を見ていなかったように思います。人を見透かすのが得意な徳田虎雄さんはきっとそんな自分のことを所詮、オーナーの気持ちなど分かる筈がないと思ったことでしょう。プロとして、リスクを抱えて大きな投資をする徳田虎雄さんと私には天と地ほどの差があった訳です。物知り顔で薀蓄を並べていた私は、ただのアマチュアに過ぎませんでした。

 こうした感覚は、小さな医療機関ですが、自分でオーナーシップを持って初めて理解できたように思います。オーナーとなって2年にもならないのですが徳田虎雄さんに一歩近づいたような気がしてうれしく思う反面、どうして勤務医時代にもう少し、オーナーの気持ちを理解できなかったかと恥ずかしく思います。今の私の理解では、大規模病院であっても小さな医療機関であってもそこに責任を負い、リスクをとるオーナーはプロであり、大規模な組織の幹部であってもそこに責任もリスクも負わない職員はアマチュアのように思えます。

 医師を志す者の動機は様々でしょう。医学や医療を通じて人に貢献したいという人もいるでしょうし、組織の中の一員ではなく自らの技量で束縛されずに生きて生きたいからという人もいるでしょう。しかし、自分の技量を売って、束縛されずに生きるために更に技量を高めていくという医師は少数派になってきたように思えます。一生懸命働いても給与は変わらず、患者からのクレームや仕事量は年々増加し勤務医などやってられないという昨今の「医療崩壊」の現象にもこのようなサラリーマン化した医師の感覚が影響しているように思えます。

 私は、2004年のスマトラ沖地震の救援のためタイを訪れました。この中で、現地の一線の病院を訪ねる機会を得たのですが、この時に驚いたことがあります。日本の医師は忙しくて給与も安く、一生懸命に働く意欲が低下しているとお話したところ、タイの有名なグループ病院の幹部の先生はタイではありえないと話されました。一人でも多くの患者を診察し、一人でも多くの患者のカテーテル治療をし、という風に働くことでそれに応じて収入を得るタイの医師は忙しい病院を歓迎するけれでも、暇な病院には寄り付かないというのです。タイではオーナーシップを持っていない医師でも、自分の技量を売って自立し、その結果、より多くの患者に貢献する構造ができているのです。こうした、仕事量に応じて収入を得るというシステムは、タイに限らずほとんどの国における医師の生き方です。ヒットの数の応じて収入が上がるプロ野球選手も同じことです。医師は、昔からのプロフェッショナルです。しかし、社会主義国家のように医師を管理する日本のシステムのなかで医師がプロフェッションを失ってゆく構造が「医療崩壊」の根本かもしれません。勤務医の開業を勧めたいわけではありませんが、医師は組織の中でどう生きるかではなく、プロフェッショナルとしての立場をどう再構築するのかという視点で、日本の医療の再生を考えるのも一つの考え方のような気がします。大病院の管理部門にいる医師はともかく、自分の技量を売って生きてゆく医師は、本質的に鶏頭に過ぎません。大病院や有名病院での安寧や良いポジションというのは根源的な矛盾をはらんでいるような気がします。本来の医師の姿に日本も回帰すべきだという気がしてなりません。

   
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鹿屋ハートセンター  郵便番号893-0013 鹿児島県鹿屋市札元2丁目3746-8 電話 0994-41-8100