院長日記

- 今日、父が死んだ - 2008.4.3 新井英和

 

    大阪に住んでいる父が今日、息を引き取りました。7年前に脳梗塞になり、「俺の人生はもうお終いだ」と初めて子供の前で涙を流した父が、今日最後の日を迎えました。お終いだと泣いていたのに、毎日、リハビリに精を出し、車椅子でトイレ まで自分で行けるようになったのですが、2月になって元気がなくなり、そのまま燃料切れのように旅立ちました。

 鹿屋ハートセンターを開業する前に、入院患者を抱えての仕事だから死んでも大阪には帰らないよと話していましたが、いざこの日を迎えると自分はどうしようもない馬鹿息子だと思えてなりません。父を見送ることもしない薄情男が地域の医療のために人生を賭けると 言うことの軽薄さが、情けなくて仕方がありません。

 38歳の頃、開業しようかと思うと父に相談した時に、「お前には無理だからやめておけ」と取り合ってくれなかった父が51歳で鹿屋ハートセンターを開業する時には「お前なら大丈夫だから心配してないよ」と言ってくれました。同じ ようなことは徳田虎雄さんからも言われたことがあります。福岡で循環器部長をしている頃のお前では院長は務まらなかっただろうが、鹿屋で苦労したから院長ができるようにな り、専務理事になれたのだと言われたのです。父が、お前なら大丈夫と言ってくれたのは徳田さんに言われた後でしたが、大学入学以来、ほとんど 大阪にも帰らず、会ってもいない私に対する父の評価が、毎週会っていた徳田さんの評価と同じで、初めて父に一人前の男として認められたようで嬉しかったものです。死んでも帰ってこないよと言ったのに対して「それでええ}と言ってくれたのもその時でした。

 父は、大正15年の生まれで、青春時代を戦中に迎えました。家も貧しく尋常小学校を出ただけの無学問、無教養の男でした。子供のころ父は、新聞の見出しの横に見出しと同じ文字をマジックで真似て書いていました。漢字は読めてもあまり書けなかった父が漢字を書けるように練習をしていたのです。子供の頃の私は、漢字も書けない父のことが恥ずかしくてならず、大学を出た父親を持つ同級生が羨ましくてなりませんでした。こんな父ですから、社会人としてのスタートは土方でした。技術も資格もない父にできる仕事は他にはなかったのです。そんな父が30歳を過ぎて間もない頃に小さな土建屋を始め、下請け仕事から徐々に元請となり、地元の大阪府豊中市ではそれなりの土建屋になりました。そのお陰で私たち4人兄弟は高等教育を受ける機会を得ました。学歴が無いためにどれほど他人に馬鹿にされたか、事業を営むためにどれほどの苦労があったかは想像を超えるものがあります。そんな父を、子供であったにせよ、恥ずかしく思った自分が、今となっては恥ずかしくてなりません。

 父は他人に愛される人でした。事業を始める時にも、なんの資格もない父に金を貸してくれた人がいます。父を可愛がり引き立ててくれた人は、皆さん故人になりましたが数え切れません。そうした人たちへの感謝を忘れずに、その人たちよりも豊かになった後もいつまでも子分のように仕える人でした。子供の頃には、こうした父の態度を卑屈でいやだと思いましたが、今の私には尊敬できる振る舞いだと思えます。私がトイレに手を突っ込んで掃除をするのをためらわないこと、「どうして医者である私が他人に頭を下げなければならないのだ」なんて思わないことなどはきっと父親譲りなのだと思います。

 父は三男である私を可愛がってくれました。土建屋の2代目にするために兄2人は殴られ、怒鳴られて育ちましたが、私には父に叱られた記憶がありません。現場を見に行く父は、よく私に一緒に行こうと誘ってくれて、自動車に乗って現場を回ったものです。現場を回った後、レストランに行き2人でよく食事をしました。兄が父と2人で食事をした話は聞いたことがないので本当に可愛がってもらったと思っています。私にも土建屋の跡継ぎとしての期待があったのかもしれません。しかし、私は医学部に進学しました。合格発表の日、父は近所の銭湯に開店から出かけ、閉店まで帰ってきませんでした。「小学校しか出ていない土方の子供が医者になる」と近所の人に 銭湯でふれまわっていたのです。こうした姿勢はその後も変わりませんでした。1999年に日本テレビの「特命リサーチ200X」に私が取り上げられた時にも、2007年にBS朝日の「菅原明子の一語一話」に出演した時にも父は「小学校しか出ていない土方の子供がテレビに出てる」と喜んでくれました。

 私は、土建屋の跡継ぎにはなりませんでした。そうした点で父の期待は裏切ったかもしれません。しかし、「「小学校しか出ていない土方の子供が医者になった」と言って喜んでくれた父の期待は裏切らないようにしたいと思っています。「葬式にも来んでええで」と言ってくれた父の思いを私は無駄にしてはいけないと思っています。4/4には56人の外来患者の予約があり、17人の入院患者がいます。私はプロとしてこの場を離れることはできませんが、それは父にも私にもできていた覚悟です。脳梗塞で片麻痺という肉体の呪縛から、父は私の開業時に鹿屋には来れませんでした。どれほど息子が作った城を見たかっただろうかとも思いますし、私自身も「ささやかだけど、自分の力で作った城だよ」と 父に見せたい気持ちで一杯でした。しかし、今、父の魂は不自由な肉体から解放されたのです。大阪から遠く離れた鹿屋にも来てくれるであろう父の魂に恥じぬ生き方をして、葬儀にも行かぬ親不孝を許してもらう外、私にはできることはなさそうです。

   
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鹿屋ハートセンター  郵便番号893-0013 鹿児島県鹿屋市札元2丁目3746-8 電話 0994-41-8100