院長日記

- 鹿屋で働くということ - 2008.2.17 新井英和

 

    私は、大阪で生まれ育ち、34歳で神奈川県の湘南鎌倉病院で働き始めるまで関西以外で働いたことがありませんでした。元々は鹿屋と私に何の接点もなかったのです。

 16歳の春休み、私は友人と二人で九州一周旅行の計画を立て実行しました。この当時、高校生が個人旅行するのには担任教師の許可が必要でした。担任教師に許可を求めに職員室に行くと、担任はすぐに許可してくれただけではなく、自分の実家が垂水にあるからそこによって行けというのです。そこで九州旅行中に指宿からフェリーに乗って大隅半島に渡り、佐多岬を訪ねた後、延々と当時の国鉄バスに乗って山道を北上し垂水の担任の実家に泊めてもらったのが、私の初めての大隅体験です。37年も前の話です。その当時は、私が大隅半島で働くことになるとは夢にも思っていませんでした。

 45歳で大隅鹿屋病院の副院長として赴任したわけですがおよそ30年ぶりの大隅でした。30年前の大隅には国分から志布志に到る鉄道が走っていましたが、2000年に再訪した折には既に鉄道はなく、観光客で賑わっていた垂水海潟温泉はすっかりさびれていました。30年ぶりに訪ねた担任のご実家では、30年前におられた担任のお父様もお兄様も亡くなっておられました。伺うと脳のご病気で地元で対応できる病院がなく対岸の鹿児島に渡っての治療でご苦労があったとのことでした。

 私が鹿屋に転勤することを自ら志願したのは、鹿屋に十分な医療機能がなかったからです。心筋梗塞になっても緊急でカテーテル治療ができる施設がなく対岸の鹿児島市に向かうフェリーの中で、あるいはフェリーに向かう途中で何人もの方が亡くなったと伺ったからです。2000年までの鹿屋の状況はこのように悲惨な医療環境でしたが、2008年の現在は大きく様変わりしました。大隅鹿屋病院で心臓外科手術が可能となりましたし、心筋梗塞の急性期治療を担う施設は県立鹿屋医療センター、大隅鹿屋病院、鹿屋ハートセンターの3施設となりました。鹿屋の医療環境の変化は循環器領域だけではありません。脳外科救急には県立医療センター、徳田脳神経外科病院が対応し、吐血や急性腹症などの外科救急には県立医療センター、大隅鹿屋病院、検見崎病院、小倉記念病院、かのや東病院、小林クリニックが対応してくださっています。また、市内にはこだま小児科、まつだこどもクリニック、江藤小児科、立元小児科、おひさまこどもクリニックがあり、入院できる小児科ベッドは鹿屋医療センターに整備されています。産婦人科も王産婦人科、桑畑産婦人科、寿レディースクリニックと分娩施設があり鹿屋医療センターも産婦人科を持っています。夜間当番の折にも、市内の眼科や耳鼻科の先生が電話で相談に乗ってくださいます。このような現在の鹿屋の医療環境をみると多くの土地で語られる「医療崩壊」はどこの国の話しかと思えるほどです。鹿屋の医療体制の中の一員として働き始めておよそ1年半、鹿屋で働いていてこのように働きやすい土地が他にあるのだろうかと思うほど、鹿屋で働くと決めて良かったと思っています。

 しかし、このような現在の鹿屋の状況は決して誰かが与えてくれたものではありません。鹿屋で働く一人ひとりの先生方の献身的な努力があってのことだと思います。また、このような努力も地域に皆さんに理解されるから維持できるものだと思っています。夜中に「医者なら診るのは当たり前だろう」と数日前からの風邪などでも「早く診ろ」と言って来られる方が鹿屋に居ない訳ではありません。このような風潮が増えてくれば折角の良い状況は一夜にして崩壊してしますのではないかと危惧します。しかし、一鹿屋にはこうしたわがままが地域を壊してしまうということに理解をもっている大勢の方が居られ、地域で地域の医療を守ろうという空気があるように思います。

 鹿屋の地方ゆえのこのような暖かい雰囲気がきっと、昔の日本の姿であったように思います。日本国内の多くで「医療崩壊」が叫ばれる中、鹿屋の将来がその「崩壊」に巻き込まれるかもしれません。しかし逆に今、鹿屋で起きていること、これがいつか日本全体の姿になるように願って止みません。

   
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鹿屋ハートセンター  郵便番号893-0013 鹿児島県鹿屋市札元2丁目3746-8 電話 0994-41-8100